武器は指と眉毛と電卓だけ。マラケシュの土曜市場で、日本語も英語も1語も使わずに交渉した20分の記録。
服の袖を引かれ、眉毛を上げられ、指を3本立てられた。結論から言うと、交渉は成立した。日本語も英語も、1語も使っていない。舞台はマラケシュの土曜市場。記者の武器は、指と眉毛と電卓だけである。
おばちゃんが電卓に「300」と打つ。記者が「150」と打ち返すと、おばちゃんは天を仰ぎ、心臓を押さえた。名演である。こちらも胸を押さえ返した。観客(近所の子ども)が笑った。交渉とは、つまり即興演劇なのだった。
20分の攻防で使った語彙は、ゼロ。使った表情筋は、たぶん全部。日本のオフィスで一日中しゃべっても、顔はこんなに動かない。
気づいたことがある。日本では、話が通じるせいで、相手の顔をほとんど見ていなかった。ここでは表情筋だけが辞書だ。20分の交渉で、記者はおばちゃんの機嫌の全パターンを覚えた。会社の同僚より詳しくなってしまった。言葉が通じない場所では、観察力と身体の感覚が研ぎ澄まされていく。これは間違いなく、脱げる。
200。たぶん相場より高い。でも帰り際、おばちゃんはミントを一束、袋に押し込んでくれた。あれは言葉より雄弁な「また来な」だった。記者は翌週も行った。2回目からは、もう常連の顔をされた。